
看護師を辞めたら、後悔するんじゃないかって、不安で。

辞めたあとの景色は、降りてみないと見えないものでした。私は今、辞めてよかったと思っています。
現時点で、私は看護師を辞めてよかったと思っています。いちばんは、「働かなければ生きていけない」という呪縛から、離れられたこと。いいことばかりではありません。でも、途中下車してもいいんだと、今は思えるようになりました。
- 看護師を辞めて、現時点でよかったと思うこと
- 「無職」と言われて感じたこと
- 「働かなければ生きていけない」という呪縛の話
- 途中下車してもいい、と思えるようになるまで
看護師を辞めようか迷っていて、辞めて後悔しないかなと不安な方に、読んでもらえたらうれしいです。
子供に「無職のママには分からない」と言われた
先日の夜、子供に言われました。
「無職のママには分からないよ。こっちは課題とか忙しいんだから」
ショックというより、むかつきました。
ふだん、母親としてやるべきことは、やっているつもりです。家事も、忙しく働いていた頃より、むしろきちんとできている。子供たちのことも、近くで見ています。それなのに、勉強の忙しさと関係のない「無職」という言葉を、急に結びつけられて、びっくりしました。
「無職」「無職のくせに」と、たまに言われます。そのたびに、モヤっとします。私が仕事を辞めたことで、子供たちに不自由な思いをさせてはいません。むしろ、ほしいものややりたいことは、応援しているつもりです。それなのに、そんなふうに言われる筋合いはない。
昔、私も母に「なんで働かないの?」と言った
ふと思い出したことがあります。私自身も、昔、同じようなことを言っていました。
私の母は、早期退職をしました。まだ働ける年齢でしたが、仕事を辞めたのです。当時の私は、母にこう言いました。
「なんで働かないの?」
今思えば、ずいぶん失礼な問いかけでした。でも、当時の私は本気でした。働けるのに働かないなんて、もったいない、と。
母は「もう十分働いた」と答えた
私の問いに、母はこう答えました。
「もう十分働いた」。
当時の私には、その言葉の意味が、よく分かりませんでした。まだ動けるのに。まだ稼げるのに、やっぱりもったいないよ、と思っていました。
母の「もう十分働いた」という言葉に、どれだけの時間と、どれだけの実感が込められていたのか。当時の私には、全く理解できていませんでした。
あのころの私は「働いている=人間の価値」だと思っていた
なぜ、母に「なんで働かないの?」と言ってしまったのか。今、振り返るとわかります。
当時の私は、「働いていること=人間の価値」だと、どこかで信じていたのです。働いている人は立派で、働いていない人は何か足りない。そんな考え方を、はっきり言葉にはしないまでも、心のどこかに持っていました。
若くて、まだ自分も働きはじめたばかりで、その価値観に疑問を持つこともありませんでした。働くことが、人の値打ちを決める。それが当たり前だと思っていました。
今、私は母と同じ立場に立っている
そして今、私は看護師を辞めて、母と同じ立場に立っています。退職して、子供に「無職」と言われる側になりました。
不思議なものです。あのとき母に「なんで働かないの?」と言った私が、今度は言われる側になっている。今なら、母の「もう十分働いた」の意味が、少し分かる気がします。
長く働いてきた人が、ある日「もう十分」と思う。それは、投げ出すことでも、怠けることでもありません。ひとつの区切りを、自分で決めるということ。
私も、長年、看護師として働きました。「もう十分働いた」。今は、私もそう言っていいのだと思っています。
「働くこと=価値」という考え方は、昔から刷り込まれた「当たり前」なのかもしれません。母から私へ、私から子供へ。だから、子供の言葉を責める気持ちにはなれません。あれは、かつての私自身の言葉でもあるからです。
「働かなければ生きていけない」という呪縛から離れられた
看護師を辞めて、現時点で何よりよかったと感じていること。それは、「働かなければ生きていけない」という呪縛から、離れられたことです。
働き続けなければ、生きていけない。立ち止まったら、終わってしまう。長いあいだ、その思い込みが自分を急きたて、しばっていました。
退職して、その手前で一度立ち止まってみて、気づきました。それは「事実」ではなく、「思い込み」だったのだ、と。
もちろん、お金の準備はしました。生活防衛費を蓄え、家計を見直し、計画を立てたうえでの退職です。退職は、自分ひとりの問題ではありません。家族の暮らしにも関わることです。「自分さえよければいい」ではなく、周りへの影響を考えたうえでの選択でした。準備なしに、いきなり仕事を手放したわけではありません。
そのうえで立ち止まってみたら、世界は思っていたよりずっと、おだやかでした。
好きなことをして過ごす時間は、すごく贅沢
退職してから、好きなことをして過ごす時間が増えました。グラノーラを焼いてみたり、暮らしを整えたり、こうして文章を書いたり。誰かに急かされることなく、自分のペースで一日を過ごす。それは、すごく贅沢なことだと思います。
働いていたころは、「好きなことをして過ごす」なんて、贅沢でうしろめたいことのように感じていました。でも今は、違います。好きなことをして過ごせる時間があるのは、それ自体が、とても豊かなことです。
そして、意外と、なんとでもなる。
働いていないと、生活が立ち行かなくなる。ずっと恐れていましたが、やってみたら、意外となんとかなっています。もちろん準備をしたうえでですが、それでも「意外と」と感じるくらい、暮らしは続いていきます。
電車で不安になった日、「降りればいい」と言われて気づいたこと
最近、こんなことがありました。
電車に乗る機会があったのですが、車内で、急に怖くなったのです。人との距離が近くて、もし気分が悪くなったらどうしよう。今までに感じたことのない不安が、どんどん大きくなっていきました。
そのことを、友人に相談しました。すると、こう言われたのです。
「電車を降りればいいじゃないですか」。
その瞬間、「ほんとだ」と思いました。
電車は、降りられる。次の駅で降りればいい。それだけのことなのに、不安で頭がいっぱいになっていた私は、その当たり前のことに、まったく気づけていませんでした。
不安が大きくなると、視野が狭くなります。「降りる」という、いつでも選べたはずの選択肢が、見えなくなってしまう。これは、電車だけの話ではないな、と思いました。
レールから降りてみて、見えた景色
仕事も、同じなのかもしれません。しんどい場所に乗り続けて、不安で視野が狭くなって、「降りる」という選択肢が見えなくなる。「働き続けなければ」というレールから、降りられると思っていませんでした。
でも、降りてみたら、景色が見えました。
レールの上を走っているときは、進む先しか見えません。でも、レールから降りてみると、電車が走るのどかな草原や、まわりに広がる長閑な自然に、気がつくことができました。降りた先で、写真を撮ってみたり、白詰草を摘んでみたり。そんなふうに過ごしてもいいのだと、今は思えます。

だから、迷っている方に、伝えたいことがあります。
途中下車しても、いいんですよ。降りたら終わり、ではありません。また、電車は来ます。
その次の電車に、乗ってもいい。看護師には資格があります。また働きたくなったら、戻る道はちゃんとあります。そして、その電車に乗らなくてもいい。電車には乗らずに、ほかのやりたいことをして過ごす。それも、ひとつの選び方です。
乗っても、乗らなくてもいい。それを自分で選べることが、降りることの、ほんとうの意味なのだと思います。
こうして「途中下車してもいい」と思えるのは、気持ちの問題だけではありません。お金の準備をして、家計を見直して、計画を立てていること。安心して降りられる土台は、結局、そこに戻ってきます。現実的な準備があってこその「よかった」なのだと思います。
家計を見直した話は、こちらの記事に書いています。

「無職」という言葉は、今でも少し胸に刺さります。「働かなければ」という呪縛から、完全に自由になれたわけではないのだと思います。
それでも、遠回りすることも、立ち止まることも、そんなに悪いことではない。現時点の私は、看護師を辞めて、よかったと思っています。
まとめ
- 子供に「無職」と言われた。でも昔、私も母に「なんで働かないの?」と言っていた
- 「働いている=人間の価値」という考えは、昔から刷り込まれた「当たり前」かもしれない
- 辞めて何よりよかったのは、「働かなければ生きていけない」という呪縛から離れられたこと
- 途中下車しても終わりじゃない。また電車は来る
レールから降りてみて、見えた景色があります。立ち止まったからこそ気づけたことを、これからも書いていきたいと思っています。同じように迷っている方の、小さなヒントになれば嬉しいです。
※ 本記事は2026年5月時点の私個人の体験と、その時々の気持ちをもとに書いたものです。退職を勧める意図も、働くことを否定する意図もありません。退職には十分な準備と計画が必要です。働き方の選択は、人それぞれの状況に合わせてご検討ください。


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